逃げるは恥だが役に立つ、しかし

 

逃げるは恥だが役に立つが成立するのは、ああいうミドルアッパーの世界だったからだろうか。

逃げるにしたって策はいる気がするし、その策にもそれなりに資金が必要なのかもしれない。少なくともいろんな貯金がいるのは確かなのだろう。お金、住処、スキル、なんとかできるコンピテンシー、これまで人に受け入れられてきた経験、他者をを頼れる感覚、頼れる先の多さ、数え上げればきりがないような気がする。これは、全部持っていなけれいけないとも思わないし、耕していくこともできるものもあるだろう。

あのタイトルが注目を浴びたのは、イヤなことは苦労してまで、死んでまでやらなくてもいいじゃないかという、最近の肯定すべき流れのなかでのことだろう。苦労は買ってでもしろ、という時代はすでに遠く、苦労は忌避される。死んでまでするようなことというのは、生きる以外にはないようにも思うので、逃げられないよりは、逃げられたほうがいいと自分も思う。

逃げた後始末

逃げることを全肯定できるか、ということをぼんやり考えていて、とりあえず自分の中には、物事はやらないとできないし、逃げるにも限度や限界がある。命を削ってまでやるべきことってのは少ないから、逃げることも必要だけど、そのことを引き受けるのは楽ではない。みたいな考えがあるようだ。

引き受けるというのは、恥を偲んで生きるみたいなことになるのだろうが、これをするには結構胆力が必要で、損切が早いと、この辺の塩梅が涵養されないのがかなり厳しい。やめるより戻るほうが大変で、戻ることのストレスへの恐怖を嫌ってしまうと、どんどん大変になる、これは、かなりつらいことでもある。

やれないなあと思ってやり続けるのはかんたんなことではないし、容易にめげてしまうわけだから、そのことを責めたところでなんにも出てこない。ひとつ手を出せそうな青写真を一緒に作ったり、欲望を向社会的な動機にしてみたり、そういう感じになるのだろうかと思う。

まずは、われをとりもどさないと

カウンセリングや心理療法ではしばしば、自分のために生きることに価値をおいているところがあるように思う。相談室にお見えになる方々の多くは、他人のために生きすぎて傷ついてきた人も多いし、自分を大事に生きていけるようになってほしいと願うことも多い。これだけ見るとこの価値は相反するように見えるが、他人のために生きることすべてが悪いことではない。誰だって他人の役に立てれば嬉しいものだ。そういう体験が、再出発の、回復の契機になることも多く、大切にする他はない。

そこで踏み出していくのに必要なのが、知恵と勇気だろう。
言葉を変えるなら、コンピテンシーとユーモアと言っても良い。

ただ、これを精神論で終わらせてしまっていけない。心理学的な観点でもって、それらが何でできているか、どうすれば発揮しやすいかを考えていかなければならない。それが発揮できるにつれて、その人の自己感も回復していくように思う。我を忘れて逃げてきた人にとって必要なのはわれを取り戻すことであろうと思う。

かつて、精神科医の中井久夫は、「日本人の自我は意地に潜んでいる」と書いた。また、落語家の立川談志は、「好きの虫がいるところに自我がある」と喝破した。このことは非常に示唆に富んでいると私は考えている。

だから私はあなたの好きなものや大事なの話を聞くのである。

 

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2021年01月28日