隣り合わせの白骨と生

 

人はかんたんに死ぬ。
死とはあっけないものだ。

浄土真宗、白骨の御文章というのがある。白骨の御文章はまさに諸行無常を説く。

サレハ 朝ニハ紅顔アリテ夕ニハ白骨トナレル身ナリ ステニ无常ノ風キタリヌレハ スナハチフタツノマナコ タチマチニトチ ヒトツノイキ ナカクタエヌレハ 紅顔ムナシク變シテ 桃李ノヨソホヒヲウシナヒヌル(白骨の御文章一部抜粋)

朝元気だったものが、夜にはなくなって白骨になっている。生とはそういうものだと説いている。小さい頃から聞いていたので、おおよそ覚えてしまったほどである。

死とはあっけなく来るものだし、そうかと思えば死なないときは意外と死なないものだ。ほっといても直に死ぬんだから自殺とかやめてくれと思うこともあるが、そうも言えないのっぴきならない事情があるから自殺をしてしまうのだとも思う。

人間いつか死ぬとわかってても、病的なときに死にたいって湧いてくるのは止められない。自殺を仄めかすのは生きたいという訴えだが、病的な希死念慮は違う。あれは死にたいじゃなくて、死ぬしかないとか、逃げるしかないとそれしかなくなってしまうものなのだ。理屈じゃない。体験でしかない。不安の衝迫であって、止められるものではない。生きることは薄氷の上を歩くようなものだが、そのことを否認できてはじめて成立するものだなといつも思う。そしていつもそのことを忘れている。死なないでいられるのは、たまたま向こう側にいっちゃうか、踏みとどまれたかの違いでしかない。人生は綱渡りであって、たまたま踏み外していないだけの、かんたんに死ぬなにかなんだと思う。そこに言葉は無力かもしれない。

とはいえ、死なないときは案外死なない。死んでないから生きてるんであって、別に人生に意味を見出そうとすることに実は大した意味はないのかもしれない。だったら、せめていくばくかなりともQOLを追求したいところではある。無意味を受け入れることが成熟だとユングはいったが、人生は不条理だねえと諦めるには、どこか良い思い出がないと難しかろう。だからこそ、くだらない話をたくさんしようではないか。生きることはそういうことだと私は思っている。

ひとりでその道を行ける人は良い。
同行者が必要であれば、門を叩いてほしい。

 

 

ホーム

2020年08月11日