私たちはしばしば「元気すぎる人」「疲れを知らない人」「陽気で活動的な人」に出会います。そうした姿勢は、時に周囲を惹きつけ、リーダーシップとしても高く評価されます。しかし、そうした活力に満ちた姿の背後に、抑え込まれた苦悩や孤独、無力感があることも少なくありません。
躁的防衛としての発揚――Akiskalの理論から
このような状態を、精神科医アキスカル(Hagop S. Akiskal)は「躁的防衛(manic defense)」という言葉で説明しました。躁的防衛とは、本来ならば抑うつに陥るような状況に対して、あえて高揚感や過活動で応じ、自分の苦しみを無意識のうちに否認する心の働きです。 Akiskalは、うつと躁を明確に分けるのではなく、気分の揺れを連続的(スペクトラム)なものとしてとらえ、人格傾向や気質の中にその萌芽があると考えました(1。
その中でも「発揚気質(hyperthymic temperament)」は、特に躁的防衛と親和性が高い気質とされます(2。 発揚気質の人は、 常に前向きで、 エネルギッシュに活動し、 疲れを感じず、 外向的で、 周囲から魅力的に見られやすい、 という特徴を持ちます。 しかしこの気質の背景には、「疲れ」や「無力感」といった感覚へのアクセスの困難さがあります。つまり、抑うつという「沈むこと」ができないがゆえに、あえて「浮き続ける」ことで自我を支えているという側面があるのです。
現代の精神分析理論の中には、幼い頃の心の傷や、大人になってからの生き様の中に潜む複雑な感情に向き合うための工夫が数多く見られます。
たとえば、Kleinは、幼い頃に大切な対象との別れや喪失体験に直面した子どもが、その辛い現実に耐えかねて、あたかも全能であるかのような空想の世界に逃避する姿を描き出しました。彼女は、幼少期において直接体験することができない苦痛を、万能感や支配欲といった幻想を通して否認し、心の安定を図ろうとする防衛機制を「躁的防衛」と呼びました。この考え方は、幼い心が現実の厳しさに直面する際、内面に広がる虚構の世界を利用して自我を守るという、非常に繊細で痛ましい側面を浮き彫りにします。
一方で、Akiskalは、同じ「躁的防衛」という現象を、大人になった後の気質や生活歴の中で捉え直しています。つまり、幼少期に生じた防衛メカニズムは決して一過性のものではなく、成人期においても持続し、個人の性格や行動パターンに影響を与え続けるという見方です。Akiskalの視点は、成熟していく中での心の在り方を重視し、私たちが日々の生活の中で自己をどのように守り、また時にはその防衛がもたらす偽りの元気さにどのように向き合うかを考える手がかりを与えてくれます。
Winnicottの理論に目を向けると、彼は私たちが自己を守るために「偽りの自己」を構築するという現象に着目しました。外見上は明るく、適応的に振る舞うその姿は、実際には深い孤独や脆さ、そして自己への断絶感を隠すためのものです。Winnicottは、私たちが本当の自己をさらけ出すことができないとき、あるいはそれに直面する勇気を持てないとき、外側に見える活発さや適応の良さが、内面の苦悩から自分を守るための外殻となると説きました。こうした偽装的な元気さは、まさに内面に潜む孤独や絶望の痛みを覆い隠す一つの手段と言えるでしょう。
ここで興味深いのは、Akiskalの「躁的防衛」における「発揚」という現象です。これは、一見すると活発で前向きなエネルギーのように見えますが、実際には深い孤独や絶望、そして自己の根底にある苦痛を否認するための防衛的な働きの一環であると考えられます。
Winnicottの視点から見ると、この偽装された元気さは、真の自己が持つ弱さや傷つきやすさを隠すための仮面に過ぎません。さらにWinnicottは、時には沈黙や空虚な状態、あるいは一時的な退行状態にとどまることも必要だと説いていますが、Akiskalの理論では、あまりにも活動的であり続けることで、成熟した抑うつ状態に至るのを回避しようとする自己保存のメカニズムが働いていると捉えられます。
このように、幼少期の痛みや喪失体験が、成人してからも私たちの内面に影響を及ぼし続けるという考え方は、決して楽なものではありません。むしろ、これらの理論は、自己の中に潜む苦痛と向き合う勇気や、たとえ偽りの元気さを装っていたとしても、その背後にある深い孤独や悲しみを認めることの重要性を教えてくれます。Akiskalの理論は、こうした防衛メカニズムが単なる幼少期の現象ではなく、大人になってからも私たちの生き方や性格に大きな影響を与え続けることを示しており、その認識は自己を受け入れるストーリーを紡ぐ上で大きな示唆となります。
日本社会における「発揚」
Akiskalの理論は、双極性障害の新しい理解として注目されましたが、一部では「正常範囲の気分まで病理化している」との批判もあります(5。しかし、日本社会においては、この「発揚」というあり方こそが、ある種の理想像として内面化されてきた歴史があります。 例えば、戦後の高度経済成長期には「モーレツ社員」「24時間働けますか」といったキャッチコピーが流行し、疲労や無理に気づくことが「甘え」とされてきました。現代においても、「ブラック企業」や「過労死」という社会課題がある中で、感覚機能を鈍らせてまで働き続けることが美徳とされる傾向は根強く残っています。 つまり、発揚気質の人だけが疲れに気づきにくいのではなく、社会全体が「発揚を強要する文化」を内在化しているともいえるのです。
架空の事例:Aさん(60代男性)
Aさんは若い頃、学生運動に情熱を傾け、社会人になってからも職場のエースとして活躍してきました。人とぶつかりやすいものの、どこか人懐こく、周囲との関係を築く力も持ち合わせていました。 40代での栄転後も過活動は続き、長距離通勤をこなしながら深夜まで働き、飲み会をこなす日々。ところが60歳を迎えた頃から高血圧が見つかり、徐々に体力の限界が訪れました。やがて抑うつ的になったものの、それでも仕事を続け、最終的に脳血管障害に倒れました。 Aさんは、「抑うつになる前に壊れてしまった」ケースです。発揚というブレーキの壊れた車は、どこかで必ず止まるということを示唆しています。
感覚機能を取り戻すということ
ユングは人間の認知機能を「思考」「感情」「直感」「感覚」の四つに分類し、それぞれに“優越機能”と“劣等機能”があると述べました(6。これは、私たちが生きていくうえで、どの機能を主に使い、どれを後回しにしているかという偏りを意味します。
発揚気質の人は、この中で「直感」や「思考」が優越機能となりやすく、「感覚」や「感情」が後回しにされがちです。 彼らは未来を見越して物事を進めるのが得意で、頭の中で「これはやるべきだ」「まだできる」と計画的に動きます。けれど、「疲れた」「しんどい」「もう限界かもしれない」という身体や心からの“今ここ”の信号を感じ取るのが苦手です。 この「疲れの鈍さ」は、若い時期には長所として働きます。体力があるうちは、多少の無理も通ってしまうからです。 しかし、中年以降、体の衰えが始まると、それまでのように押し切ることが難しくなります。それでも感覚機能が十分に働いていないと、「もうこのペースは続けられない」「少し減速しよう」といった判断が下せません。すると、無理を重ね、思わぬかたちで心身に破綻が訪れます。
カウンセリングの場面では、はじめは「疲れ」を感じていないと言っていた方が、次第に身体や心の微細な違和感に気づき、「ああ、自分はずっとしんどかったんだ」と振り返る場面が訪れることがあります。それは、感覚機能が回復し始めた証であり、回復への重要な第一歩です。
発揚の終焉と回復の可能性
発揚気質の人の多くは、「疲れる」こと自体に抵抗を持っています。
「まだできる」「もっとやれる」「今ここで止まるわけにはいかない」――そうした内なる声に突き動かされ、走り続けてしまうのです。けれど、どんなに強靭に見える身体も、どこかで限界を迎えます。 発揚の終わりは、ある日突然やってくるものです。そしてその時には、うつになる余裕もないほど深い疲労感が心身を覆っていることもあります。そして、恐ろしいのは、限界が来たときに初めて「もう休めない」ほどになっていることです。 抑うつにすらなれず、ただ重たく、鈍く、感情も思考も動かなくなってしまう。「もう、何もしたくない」ではなく、「何もできないし、感じない」という地点まで追い込まれてしまう方もいます。
この状態に至ると、そこからの回復には時間がかかります。 発揚のエネルギーに代わる、新しい生き方を見つけていく必要があるからです。これまで突き進んできた道を、少し戻ったり、歩調をゆるめたり、まったく別の方向に目を向ける柔らかさが求められます。 その過程で重要になるのが、「感覚」の回復です。 気温の変化に気づくこと、身体の痛みをそのまま痛みとして感じること、食べ物の味を味わうこと、誰かの言葉にちょっと泣きそうになること――そうした繊細な感覚が、回復の入り口なのです。
人間の限界はそう大きくありません。にもかかわらず発揚気質の人は、「まだやれる」「昔のように」と自分を駆り立て続け、身体の限界を見落とすことが少なくありません。 「疲れを感じる」という感覚が回復されていくことで、自らの無理にようやく気づく方もいます。その瞬間、それまで押し込めていた痛みや弱さが、ようやく言葉になっていくのです。
最後に――「疲れた」と言える勇気
現代社会は、「もっと頑張れる自分」「何者かになれる自分」を求めて、私たちを駆り立てます。 発揚気質の人は、そうした期待に応えようとするうちに、自分の感覚や限界を置き去りにしてしまうことがあります。 けれども、どんなに立派に見える外側の自分も、本来の「私」という存在はひとつきりです。 そしてその「私」は、決して交換可能なものではありません。壊れてしまえば、誰も代わってはくれません。 「疲れた」「もう無理かもしれない」「今は休みたい」 こうした言葉を口にすることは、敗北ではなく、人生を続けるための智慧です。
「発揚」は単なる感情の高まりではなく、絶望の反動としての上昇(exaltation)であり、心の深層にある不安や喪失を覆い隠すために動員される。つまり、発揚は「生きている」ことの実感を強化する代償的な構えであって、他者に対しても自己の活力を証明しようとする形で表出されることが多いものです。
私たちは、発揚のエネルギーだけで生きていくわけにはいきません。 いつかその火が消えるときが来ます。けれども、そのあとに残る自分を大切にすること――そこにこそ、本当の回復と成熟の可能性があるのではないでしょうか。
「無理していない」「これが普通」 そんな言葉で自分の限界を曖昧にしていませんか? 発揚に支えられた日々は、ある意味で人生の“前借り”だったのかもしれません。カウンセリングの場では、そうした方が「疲れた」という感覚を取り戻し、自分の無理にようやく気づいていかれる瞬間があります。けれども、私たちの身体や心は、たったひとつきりの「乗り物」です。その乗り物が発するささやかなサインに気づく感覚を、今一度取り戻す必要があるのです。
参考文献
1 Akiskal, H. S.(2002). The bipolar spectrum: new concepts in classification and diagnosis. Bipolar Disorders, 4(Suppl.1), 1–7.
2 Akiskal, H. S.(1998). Toward a definition of generalized anxiety disorder as an anxious temperament type. Acta Psychiatrica Scandinavica, 98(s393), 66–73.
3 Klein, M.(1940). Mourning and its relation to manic-depressive states. In The Writings of Melanie Klein, Vol. 1. Hogarth Press.
4 Winnicott, D. W.(1965). The Maturational Processes and the Facilitating Environment. Hogarth Press.
5 仙波純一(2011). 「双極スペクトラム概念の問題点を考える」. 精神経誌, 113(12), 1200–1208. https://journal.jspn.or.jp/jspn/openpdf/1130121200.pdf
6 Jung, C. G.(1921). Psychological Types. Princeton University Press.(邦訳:『タイプ論』林道義訳、創元社)
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