ニードという観点から自己愛を考える

 

自分は自己愛的ではないか、相手は自己愛的ではないかということで、相談に結びつく方が多い。かつては、本人は困っていないが、自己を満たしてくれる称賛が得られなくなったことから、抑うつ的になり来談に至るといったことが主だったが、今は、自己愛的に振る舞ったことで、周囲から嫌われるのではないかとか、他者と関係を持てないのは、自分にこだわりすぎているのではないかという、何かの欠損感覚を不安に感じ、来談される方が多いように思う。

自己愛はなぜ問題になるのか

これは、もともと抱えていた心理的課題とも言えるが、インターネット時代によって自己愛的仕草に対しての視線が厳しくなっている部分が背景として大きいのではないだろうかと思う。どういう行動が自己愛的であるか、広く可視化され、批判的なニュアンスで持って拡散される。それは恥ずべきこととして扱われ、強い自尊心の傷つきを生むのだろう。自己愛仕草は世に溢れて、過剰な予期不安を生んでいる。フーコーも驚くほどではないだろうか。

それ故に、自己愛を保つことがいささか難しくなっているところもある。共感が大きな要素を占めるようになった現代において、共感のハードルは上がってきた。そのぶん望むように共感を得ることは難しく、「共感不全」を背景にした自己愛的な怒り(自己愛憤怒)を巡る「炎上」事象は枚挙にいとまがない。

自己愛は願望ではなく欲求

そもそも、自己愛は健康的なものであり、人間の発達に不可欠なものである。好奇心を持ったり、何かを探求したり、感情の揺れを一定程度に抑えたりする上で、自己愛の果たす役割は大きい。自己を満たしたい感情は、子どもっぽい欲望・願望ではない。大人になればそんなものは卒業しなくてはならない、というものではない。

自己愛の治療を専門としたコフートは、自己愛を求める気持ちは欲望desireではなく、「ニードneed」であって、いくつになっても存在している。欲望は原理的にはかなわないものだけれど、関心を寄せられたい、称賛されたい、頼りになる人に依存をしたい、という自己愛ニードはは水や食事をしたい欲求のように生きる上で必要なものとも言える。

古典的理論のように自分を愛せるようになって(自己愛)、他者を愛する感情が生まれるとか(対象愛)、他人を愛するようになったら、そのまま自己愛がなくなるなんてことはないだろうとコフートは述べるが、そうだろうなと思う。自己愛が対象愛に発展して、人はずっと対象愛の水準に留まるとは考えづらいし、自己愛のラインと、対象愛のラインは異なっており、併行しているのだとコフートは言う。

自己愛の問題は、その自分を満たすニードの過剰か過少の問題。つまり得られなかったものを得たい、あるいは得られない恐怖を避けたいという、自然なこころの働きのバランスシートが崩れていると言えるのかもしれない。自己愛それ自体を異常と考えるのではなく、収支の問題と考えて見る視点も必要だろう。

それをともに検討するところから自己愛の臨床は始まるように思う。

 

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2021年04月16日