不安の個人化を超えて──社会の中の苦悩に臨床はどう応えるか

 

現代の日本社会において、多くの人が「なんとなくの不安」を抱えています。

物価の高騰や雇用の不安定、孤立化の進行──こうした現象は単なる個人の不運ではなく、構造的な問題に起因しています。しかし、そうした社会的な要因が、自己責任や努力不足といった「個人の問題」として内面化されてしまう傾向が強まっています。このような「不安の主体化」は、私たちの臨床実践に深い問いを投げかけます。

不安はなぜ「自己責任」として処理されるのか

社会経済的な不安定さが広がる中、「ちゃんとしていないと落ちるかもしれない」「もっと頑張らなければ」という焦りが、多くの中間層を蝕んでいます。Ulrich Beck(1992)は、こうした社会の変化を「リスク社会」と呼び、制度的な保障が後退する中で、個人があらゆる不確実性を引き受けねばならなくなっていると指摘しました。Pierre Bourdieu(1993)もまた、中間層の没落を「社会的苦悩の見えにくさ」として描いています。

本来ならば社会全体で共有されるべきはずの不安が、個人の内面へと取り込まれ、「あなたは大丈夫」「前を向こう」といった一見ポジティブな言葉で消費されるようになります。こうした応答は、苦悩の意味を問い直す機会を奪い、むしろ自己評価の不安定さを強化してしまいます(Ehrenberg, 1998)。

傷ついた自己愛と「社会におけるミラーリング」

精神分析の視点では、このような文脈で傷つくのは「自己愛」です。Heinz Kohut(1971)は、自己愛の構造を支える「ミラーリング」や「理想化」が機能しないとき、自己は空洞化し、不全感や羞恥、怒りといったかたちで反応すると述べました。ここで注目すべきは、この「ミラーリング」自体が、現代社会においては家族や教師といった近接的他者だけでなく、SNS上の「まなざし」や職場における承認の空気といった、より広範な社会的領域にまで広がっていることです。

たとえば、Castells(2009)は、ネットワーク社会においてアイデンティティは自己の内面ではなく「関係の網の目」の中で生成されると述べています。これは、自己愛の支えとなる承認構造が社会的に編成されているという視点と親和的です。こうした承認のネットワークが不安定化し、過剰な自己演出や切り捨ての防衛が生じるのは、Kohutが描いた「ミラーの欠如」が、社会構造によって拡大された結果といえるでしょう。

臨床の場は、この社会的ミラーリングが失われたクライエントにとって、安定した「反映の場」として機能することが求められています。それは単に共感することではなく、「どのように自分の歴史が傷つきのなかで編まれてきたのか」を一緒に再構成する作業でもあります。

ナラティヴの再構築と「理解可能な苦悩」へ

Freud(1914)は「喪とメランコリー」において、喪失された対象との関係性を語り直し、自我の再編成を図ることの重要性を説きました。これは、WhiteとEpston(1990)のナラティヴ・セラピーにも通じる視点であり、語られていなかった苦悩に意味を与えるという点で共通しています。Jerome Bruner(1990)は、人間の自己理解は物語的構造を持つと述べましたが、それは同時に「語る場」が存在してはじめて成立する営みです。

このとき、Winnicott(1971)の「遊ぶこと=中間領域」という概念が示唆的です。Winnicottにとって、遊びの空間とは、内的現実と外的現実が交差する創造的な場であり、ここでこそ自己は守られながら表現されうるのです。Brunerの「物語的自己」も、まさにこの遊びの空間で紡がれるものでしょう。臨床実践において、クライエントの語りが変容を遂げるためには、この中間領域=安全な語りの空間が不可欠なのです。

「自己決定」の支援としての臨床

Carl Rogers(1951)は、カウンセリングの目的を「自らの経験に責任を持ち、自己決定をしていけるようになること」と述べました。「自己肯定感」や「前向きさ」は、決してゴールではなく、自分の歴史と感情を引き受けた結果として得られるものです。 この意味で、臨床実践とは「正しい答えを示す」ことではなく、「問いを共に生きる」ことだと言えるでしょう。現代社会が人々に突きつける「不安」や「生きづらさ」を、個人の努力不足として処理せず、「なぜそのように感じるのか」を物語として語れるよう支えること──それが臨床の本質です。

終わりに──臨床はどこまで社会とつながるか

不確かな時代にあって、人は自分の足元がぐらついていることに気づきます。そしてそのとき、必要なのは「立ち直ること」ではなく、「なぜ揺らいだのかを語ること」です。臨床は、語られずにいた苦悩に光を当て、その意味を共に探す時間を提供します。

個人の心の問題を社会と切り離すのではなく、むしろ社会の中に生きる一人としての声を尊重し、その声に耳を傾ける──それが、これからの心理臨床に求められる姿ではないでしょうか。

脚注・参考文献

Beck, U. (1992). Risk Society: Towards a New Modernity.

Sage. Bourdieu, P. (1993). La misère du monde. Seuil.

Ehrenberg, A. (1998). La fatigue d'être soi: Dépression et société. Odile Jacob.

Kohut, H. (1971). The Analysis of the Self. International Universities Press.

Castells, M. (2009). Communication Power. Oxford University Press.

Freud, S. (1914). "Trauer und Melancholie." In Gesammelte Werke, Vol. 10.

White, M. & Epston, D. (1990). Narrative Means to Therapeutic Ends.

Norton. Bruner, J. (1990). Acts of Meaning. Harvard University Press.

Winnicott, D. W. (1971). Playing and Reality. Tavistock.

Rogers, C. (1951). Client-Centered Therapy. Houghton Mifflin.

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2025年08月06日