精神分析家のウィニコットは、子供の自己発達において、母親の鏡役割、つまり照らし返しが、自我の形成や発達に重要であることを指摘している。
子供の動きや表情、言葉に対して母親が示す、応答の中の自己を知覚することで、子どもは自分の姿を知るとし、まなざされることで、まとまりのなかった自己が、まなざす主体としてまとまっていく。ウィニコットは「見るー見られる」ことを通じた、子供の自己の形成過程における、母親の「鏡としての役割」について論じている。このとき、母親が「創造的に見ることcreative looking」、すなわち、主体)子供)が創造的な眼差しによって「見られるbeing seen」ことを通じて、自己が構築されると説明している。そして、治療関係において、治療者もまた、創造的なまなざしを向け、適切に関わる必要があることを指摘している。
自己心理学のKohut.Hもまた、(理想的な)対象からの鏡映(照らし返されること)の時期をへて、自己対象関係が始まり、断片化された自己が凝集化していくと述べており、クライエントに向けるまなざしは極めて重要なものと言えるだろう。
面接室にあらわれるクライエントは、しばしば、共感不全や批判的なまなざしにさらされ、健全な自己愛を育むことが困難であった歴史を抱えている。セラピーにおいては、クライエントの中の豊かで、機能している領域を「発見」し、保障された環境の中で自己を「発揮」していくことがセラピーのプロセスだろう。そのためには機能しているものを強化しながら関わることが重要だということは、当然のことだと思う。しかし言語的なアプローチでは、非機能的なスキーマに支配されているためか、予定調和にネガでティブな物語で終わってしまうことも少なくない。
アート表現は、そうしたオルタナティブな領域にアクセスする、良い媒体になるのではないかと思う。絵の上手い下手はあれど、抑うつ的な語りしかできなかった人が、思いよらぬ形でその抑うつを描き出してみたり、絵の中では遊びだしたりする。枯れ果てた世界を語る人が、生き生きとした創造性を表すことがある。セッションを追うごとに枯れ木に葉がついたり、むき身の表面に樹皮が描かれるようになったりといった、些細ではあるが、非常に重要な表現に出会うとき、クライエントだけでなく、私たちもまた驚く。その驚きが、オルタナティブなものにアクセスする鍵となることを私は度々経験してきた。
これはまさに、その人に内在化していた豊かなCreativityが外在化されるプロセスだろう。私たちは外在化されたその表現を新鮮に受け止め、応答することを通じて、クライエントに働きかける。変化を伝えることで、クライエント自身が何かを発見することもある。クライエント自身が創造的な自己に出会い、オルタナティブな自己を構築していく手がかりとなる場面に出会うこともある。もちろん一回でそんなドラスティックなことが起こるわけではないけれど、外在化された表現は、経過を追いかけ、変化を実際に確認していく上でも有用なものだと思っている。それよりもなによりも、クライエントの利用可能な媒体を介したコミュニケーションは、フリーズした中核自己をなんとか支え続けた、その人の資源(自己の代償構造という)を見出し、膠着した語りの空間を変化させるとば口となる。
描画を介したコミュニケーションは、「創造的に見る」ことのひとつの形と言えるだろうと思うし、構造的にそうした性格を色濃くもっているのではないか、とよく考える。
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