「ウサギ狩りについて考えないでいられたら、狩りに連れて行ってやろう」
考え事って楽しいこともあれば、しんどいものもありますよね。しんどいものは往々にして考えたくないものであるし、楽しいことだけ考えていたい。嫌なことを感じなければいい、考えないようにしたいという願いは多くの人が思うことです。
「考えない」ことについて思うとき、ドストエフスキーの「罪と罰」のあるエピソードが思い浮かびます。
兎狩りが大好きな主人公に対して、兄が意地悪を言うのです。
「今日一日兎狩りのことを考えなかったら、兎狩りに連れて行ってやろう」
主人公は考えないようにすればするほど、兎狩りのことが頭に浮かんでしまって、苦しみ、兎狩りにも連れて行ってもらえない、というシーンです。
「考えない」、というのはそのことを考えるということをやめるということで、心の平穏を保つためには重要なことだと思います。ただ、「考えない」ようにすることは存外難しく、「考えないようにする」行為は、逆説的にそのことについて考えることを含んでいます。
「考えない」ことへの処方箋
往々にして、「〇〇しない」ようにするよりも、「〇〇する代わりに△△する」といったように、「しない」ではなく「する」形になっていくほうが、具体的で、目的的となるため、実行しやすくなると言われます。また、その分評価もしやすくなる。こうしたアプローチに対して、徹底的に、飽きるまでやるのがいいんだという逆説的プローチもあるわけですが、いずれにしても、主体的にそのことに取り組むことで、苦しみに対して受動的になるのではなく、能動的な態度を取ること主眼に置いているという点では共通しているように思います。眼の前のことに取り組んだり、軽作業をやったりといった、森田療法の考えも参考になるかもしれません。
考えてしまうことの意味
では実際にはそうすることは難しく、なかなかうまくいくものでもありません。そうも行かないのは、なぜなのでしょう。それは、その事を考えなくてはいけない、何らかの個人的な意味があるからなのだろうと思います。その考えに用がある限り、考えを手放すことは難しく、用がなくなったり、代わりのものが見つかると、自然のその考えの囚われが和らいでいくようです。抗わなくてはと思えば思うほどどうにもならないけれど、抗えないことを受け入れることで、自然と気にならなくなるようにさえ思います。この苦闘の歴史を共に歩むこともまた、カウンセリングの一部ということになってきます。
この問題に取り組むとき、クライエントさんがどんな資源を持っていて、どんなことにアクセスしやすいかを十分に吟味する必要があります。それは、仕事でもゲームでも何でもいいのだと思うのです。
人生の冗長性をさがそう
ゲームや漫画などをときに現実逃避だとおっしゃる方もいますが、「何かあったときに逃げ込めるもの」のリストをたくさん持つことは非常に重要で、自分に冗長性をもたせることにつながります。冗長性とは、すなわち「ゆとり」です。ゆとりがなくして人間は生きていけません。原始的な人間ですら、壁画を残しましたし、猫だって、生きるのに必要はないけれど、好物とするものを持ったりします。精神分析家のウィニコットの言葉を借りれば、「遊べる」ようになっていくということを意味するのかもしれません。
ウィニコット曰く、セラピーの目標は、「遊べるようになる」ことだと言っています。実際カウンセリングの終盤になって来ると、「楽しむ」機能が回復してくることがしばしば起こって来ること目の当たりにします。言葉遊びだったり、新しいことに挑戦してみたり、と遊びが自然とうまれるようになっていくので驚きます。苦闘の時間はありますが、そこに向かっていくお手伝いを続けていきたいと思っています。
ホームへ