政治的不安定、物価の高騰、先の見えない社会情勢。私たちはいま、かつてない不透明な時代を生きています。収入格差が広がり、「普通に生きていたはずなのに、いつ転落するか分からない」という不安を、多くの人が抱えています。そうした不安やストレスから、心理カウンセリングの場を訪れる方が増えています。
では、こうした社会的不安のただなかで、カウンセリングには何ができるのでしょうか。答えの一つは、「自分という存在に立ち返ること」、そして「自分の足場を探し直すこと」だと思います。
自分を見つめ直すという作業
混乱した社会の中で、自分がどこに立っているのか、どこに向かっていくのかが見えなくなったとき、カウンセリングはその迷いを一緒にたどる場となります。自分の今の状態を見つめ直すこと、そして未来に向けてどう歩んでいくかを検討することは、地に足をつけて生きていく上で大切な作業です。
けれど、「自分を見つめる」といっても、それはとても難しいことでもあります。人は、直接には自分自身の姿を見ることができません。だからこそ、時に言葉にならない想いや不安を、“何かに映す”必要があります。その「鏡」のひとつとして、描画という方法が非常に役立つことがあります。
「今と将来」描画
当ルームでも行っている技法のひとつに、「今と将来」を描くという描画のワークがあります。これは、一枚の紙を半分に折り、左側に「今の自分」、右側に「将来の自分」を描いていただくというものです。
この技法のポイントは、単に理想の未来を思い描くだけでなく、「いまの自分」と「なりたい自分」あるいは「なるかもしれない自分」のあいだに橋をかけるような感覚を生むことにあります。描かれた2つのイメージは、しばしば対照的でありながらも、どこかに連続性や語りの軸を見いだすことができます。
実際の臨床から──描かれた“未来”が教えてくれること
ある方は、左側に縮こまり、暗い表情をした人物を、右側には自然の中で歩いている自分を描きました。最初は「こんなのただの希望的観測です」と照れながら話しておられましたが、そのうち、「そうなりたいというより、そうなれたらいいと思っている自分がいる」と語るようになりました。やがて、それが「じゃあ今、何を手放したらいいか」「何に立ち向かっているのか」という対話につながっていきました。
また別の方は、「今」も「将来」もまったく変化のない絵を描きました。「ずっとこのままという気がする」と言ったあとで、「変わらないって思ってる自分が、少し怖い」と言葉が続きました。この“変わらなさ”もまた、立派な自己理解の一歩です。描画をきっかけに、変化を恐れていた気持ちと向き合うようになりました。
描くことは、自分の“物語”を思い出すこと
描いてみてはじめて、「自分はこんなふうに将来を思い描いていたのか」と気づかれる方も少なくありません。人は、案外、自分がどうしたいのか、どうなりたいのかがわからないまま日々を過ごしていることが多いものです。しかし、不思議なことに、それを絵にしてみると、ぼんやりしていたイメージが思いのほか具体的なかたちとして現れることがあります。
このような現象は、描画がイメージや情動を「目に見える対象」として外在化するためだとされています[1]。自己イメージを視覚的に提示することで、自身の価値観や未来像を客観的に再構成する手がかりが得られるのです。また、White と Epston は、物語を語り直すことで人が新たな自己像を形成し、より希望をもって生き直すことができると述べています[2]。 描かれた絵は、語りを呼び込み、意味を再構成する出発点となりうるのです。
Bruner も、人間の意味づけは物語的に構成されると述べており[3]、絵を描くことが、単なる創作ではなく、自分自身の語りを再構築する契機であることを示しています。
おわりに──描画は未来の自分と出会う手段
絵を描くというのは、頭の中にある曖昧なイメージや感情を、紙の上に具体化する作業です。そして、「今と将来」を描くということは、自分という存在の時間軸を取り戻すことでもあります。過去と今、今と未来が断絶して感じられるようなときこそ、そこに物語を紡ぎ直すことが重要です。
とりわけ、先の見えない時代においては、ただの「希望」や「理想」ではなく、自分なりのリアリティのある未来像が必要です。その輪郭を描き出す作業が、描画というかたちで行われることで、自分の内側から自然に湧いてくる「納得」や「覚悟」が育まれていきます。
不安や混乱のただなかにあっても、自分と向き合う手段を持っている人は、次の一歩を踏み出す力を持っています。「今と将来」の描画は、そのための優れた手助けとなります。 社会が不安定であるからこそ、自分自身の軸を育てていくことが必要です。描かれた絵は、その軸を支える「語り」のはじまりになります。
カウンセリングという場で、絵を通じて自分と出会い直す体験──それは、不確かな時代を生きる私たちにとって、ひとつの大切な支えになるのではないでしょうか。
参考文献
1. Cathy A. Malchiodi (2012). The Handbook of Art Therapy (2nd ed.). Guilford Press.
2. Michael White & David Epston (1990). Narrative Means to Therapeutic Ends. Norton.
3. Jerome Bruner (1990). Acts of Meaning. Harvard University Press.
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