芸術療法(アートセラピー/Art Therapy)とは、絵画や音楽、身体表現、箱庭、心理劇、写真、映画、詩や俳句など、さまざまな芸術活動を通して、心の回復や自己理解を支援していく心理療法の一分野です。
言葉にしづらい感情や、心の深い部分にある無意識の世界を、自分のペースで表現し、その過程をセラピストが見守りながら支えていきます。
この芸術療法という考え方の根はとても古く、私たち人間の文化や祈りの営みと深くつながっています。たとえば、古代のエジプトやギリシャに見られる壁画、アフリカの儀礼舞踊、日本の『病草紙』や『源氏物語絵巻』といった絵巻物にも、病や苦しみを象徴的に描き、それを通じて自分や世界を理解しようとする姿が見て取れます。
そうした「表現する力」が、人の心を支えてきたことを、芸術療法は現代に引き継いでいるといえるかもしれません。 20世紀に入ってからは、心理学や精神医学の発展とともに、芸術を使った心理的な支援の方法が少しずつ体系化されていきました。たとえば、ドイツの精神科医ハンス・プリンツホルンは、精神科病院に入院する患者の絵を収集し、その表現にこそ、心の状態や回復への手がかりがあることを示しました¹。
この考え方はやがてヨーロッパで「表現精神病理学」という学問へと発展し、現象学的な精神医学と結びつきながら深められていきました²。 日本でも、芸術療法は独自の展開を見せてきました。精神科医の中井久夫は、統合失調症の人々が描いた絵を長年観察し、そこに表れてくる「自己治癒の過程」を理論化しました³。高江洲良英は、芸術作品にあらわれる象徴や心の動きを深く読み解き、日本における表現精神病理学の基盤を築いた人物です⁴。
また、宮本忠雄は日本の自然や風土と人の心との関係を考察し、宗教学者の島薗進は、芸術を通じた精神性の回復に光を当てました⁵。 このような思想的な背景のもと、芸術療法にはさまざまな効果が期待されています。たとえば、絵や音楽などの非言語的な手段を使うことで、普段は出しにくい感情が、無理なく表に出ることがあります⁶。
言葉にできないトラウマや心の痛みを、象徴的なかたちで「外に出す」ことができると、それだけで心が少し整ったり、落ち着いたりすることもあるのです⁷。 自分がつくった表現を、誰かが大切に見てくれた──その経験は、自己肯定感や人とのつながりにもつながります。セラピーのなかで「自分でもよくわからないけれど、これが今の私です」と差し出された絵が、そのまま受け取られることで、「語れないこと」にも居場所ができていきます。
芸術療法には、実に多様な技法があります。
たとえば描画療法では、クレヨンや絵の具、粘土などを使って自由に表現します。「意味があるかどうか」よりも、「なんとなく手が動く」「この色を塗っていたい」という感覚が大切にされます。
箱庭療法では、砂箱のなかに小さな人形や建物などのミニチュアを並べて、無意識の世界を象徴的に表現します。音楽療法では、楽器を奏でたり音楽を聴いたりしながら、言葉では届きにくい感情にふれていきます。
そのほかにも、身体の動きを使ったダンス・ムーブメントセラピー、即興的な演技を取り入れる心理劇(サイコドラマ)、詩や短歌を使った詩歌療法や映画・写真を使った療法などもあります。
海外では、イギリスやアメリカをはじめとする多くの国で、芸術療法は医療・福祉・教育の現場で広く用いられています。特にPTSD(心的外傷後ストレス障害)のケアや、言語が通じにくい移民・難民支援においては、芸術的な表現が非常に有効な手段とされています⁸。
日本でも1960年代以降、精神科の病院や学校、福祉施設で芸術療法が導入されてきました。近年では、災害時のこころの支援として、描画や音楽、詩歌などが活用され、東日本大震災や熊本地震の際にも、被災地での表現活動が心のよりどころとなった例があります⁹。
芸術療法は、「うまく語れないこと」や「言葉にならない思い」が、そのまま大切にされる場所です。表現そのものに意味がある──そう考えるとき、人は少しずつ、自分の痛みを自分の言葉で語れるようになっていくのかもしれません。
治すための技法ではなく、“語れるようになるまでを、語られないまま支える”療法。芸術療法とは、そんな静かで深い営みなのだと思います。
参考文献
1.Prinzhorn, H. (1922). Bildnerei der Geisteskranken. Springer.
2.木村敏 (1972).『人と人とのあいだ』講談社.
3.中井久夫 (1992).『分裂病と人類』東京大学出版会.
4.高江洲良英 (1998).『芸術療法と精神病理』創元社.
5.島薗進 (2001).『精神世界のゆくえ』東京堂出版.
6.Malchiodi, C. A. (2003). Art Therapy and the Brain. Jessica Kingsley Publishers.
7.van der Kolk, B. (2014). The Body Keeps the Score. Viking.
8.Hogan, S. (2001). Healing Arts: The History of Art Therapy. Jessica Kingsley Publishers.
9.吉川眞理 (2012).「震災支援における芸術療法の可能性」『日本芸術療法学会誌』第43巻.
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