今回もよくわからない雑感をかいていきます。つらつらと思考がフラフラするのは本当に良くない癖ですね。
さて、私達はなぜ生きていけるのか、考えることがよくあります。
人生は決して楽しいことばかりではなく、しんどいことも多いし理不尽なことも多い。ハンディキャップを持っていれば、その道程は険しいものになることもしばしばです。一方で、そういう物がありながらもそれなりに生きていくこともできているわけで、その「それなり」を支えているものは何なのだろうと思うわけです。先人たちもそれに名前をつけようとして、自明性だとか、基本的信頼感だとか、最近だと自己肯定感だとかと名前をつけてこの問題を考えようとしてきたとおもいます。理論的な話はおいておいて、今回は臨床雑感。
成功や達成の先にあるもの
わかりやすいのは自己肯定感でしょうか。しかし自己肯定感というのも何なのでしょう。よく、自己肯定感を高めるのに成功体験や達成感が云々というのを耳にします。たしかに成功体験をつむことや達成感をつむことは、たしかに自分の効力感efficacyを高めることには繋がります。けれども、お話を聞いていて、どうにもそれだけでは、自分を満たすのは難しいようです。自己肯定感を高めるために達成感を思い求めることで余計に苦しんでいるひとにもしばしばめぐり逢います。いろいろな方とお話をしてきて感じるのは、成功や達成はかならずしも肯定感の源ではなく、むしろ必要なのは他者からの承認や認められることが重要なのではないかと思うようになりました。サリヴァンなどは「絶対的関心」みたいなことも行っていたかと思いますが、自分一人でなんとかしようとするのではなく、他者との関係性の中で感じられる認識や肯定が、心の支えとなるのです。
現代のカウンセリングの場面では、高度化したこの社会に感覚的になじめずに、この社会で生きる上でのあり方に悩でいらっしゃる方非常に多く見られます。本人は頑張って馴染もうと努力し、一般的であるらしい感覚に合わせようと必死にやっているわけですが、どうにもうまくいかない。さりとてその社会や価値観からイチ抜けもできないし、させてももらえないのでしんどいのだといいます。それは非常に理解できることです。何をやっても自体が好転しないし、人から認められることはなく、むしろバカにされるだけだというのはつらいし、その日にとって事実なのですから、認知の歪みと言われてもみじめとしか言いようがありません。事実惨めなわけですから。そして悲劇的なことに、そういった問題はしばしば、発達障害であるとか、考え方の問題だとか、自己肯定感の低さの問題だと言われて、基本的に個人の問題に矮小化され、内なる声になって、責め続けることになりがちです。
たしかに、自分のものの捉え方を見直すことは非常に重要です。しかし、それ以前に、どのようにしてそのように考えるに至ったのかという歴史や経過を振り返ることは意味のあることです。自分の過去には見なかったことにしたり、傷ついた経験や自分の考えを無視してしまったりして、捉え方を歪めざるを得なかった結果であることもあるかもしれません。ただ、歪んでいるのはそのひと個人なのだろうかと疑問に思うことも少なくはないのです。
そもそも心の問題は、個人内だけで解決できるものではなく、多くの場合、他者との関係の中で生じます。現代社会では、自分の感情や感覚を後回しにして他者を優先する傾向が強まっています。その結果、自分らしさや自己感が薄れ、どうすればよいか見失うことがあります。過去に無視してしまった自分の傷ついた感情や、認知の歪みも含めて、その価値を見つめ直すことが必要になってくるのだろうと思います。
まずは自分自身と向き合う時間を持つことが大切です。カウンセリングで自分の経験や悩みを共有する際、他者との「理解される喜び」や「共感」を得られることが、孤独感を和らげ、新たな視点をもたらします。このプロセスは、自分自身を見つめ直すきっかけとなり、自分を捉え直す助けとなります。
問われているのは何だろうか
そうした苦しみの話を聞く機会が非常に多いのですが、カウンセリングを続けていく中で、共通して到達する話というのがあるようにおもいます。彼らの苦しみの中心にあるのは、この社会の中で、どうこの社会にいたらいいのか=社会におけるあり方がわからないことが問題になるのだと。「社会でのあり方」というのは振る舞いの軸であり、心の居場所のようなものでしょう。ナラティブセラピーのいうストーリーに該当するものかもしれません。ひととの関わりの中で校正荒れていくなにかであると言えそうです。それゆえにあり方とは、いかに世界が自分を受け入れてくれるかにかかっている。そレが、常に受容されず、むしろ排除されるがゆえに、いつも不安だし、どうしていいか決定することができない、覚束ないし、心細いのだというのです。更に追うロセスが進んでいくと、世界はもちろん己のためだけにそうできていないし、それを知りつつどう生きるかが日々問われていることを考えるようになるのも共通のことのようです。それは強さの形の一つだよなと個人的に思いますが、一方でそれにあぐらをかいて現状を維持し続ける、我々も含めた社会の側の怠慢でもあるとも思い、申し訳なく思う部分でもあります。
その理不尽を飲み込み、その苦痛の説明をつけるために、自分が悪いと責めることが自責感の背景にあることは多くあります。しかしそれは本当自分だけが悪いのか、自分のその感覚は間違っているのか、一度考え直すことも必要ではないでしょうか。あなた歴史を聞き、それについて話すことで、自ら、自分の人生やあり方を考え、時にはスタンスを変えていく。あり方を見出していくというのはそういう事かもしれません。そのお手伝いをカウンセリングはすることができると思うのです。
ホームへ