新型コロナウイルスの蔓延に伴う、私達の生活様式の変化は、家族関係のあり方にも大きな変化をもたらしました。リモートワークやリモート授業等で、いつもいない人がいることによって、これまで確保されていた個人空間が損なれることが増えましたし、生活空間と仕事の空間が重なり合うことで、生活空間が領海侵犯されていくと言ったことがしばしば増えました。
在宅している夫が家事のやり方にいちいちケチを付けてくるとか、外出ができないので、家庭外の会話が生まれずに、息が詰まるとかといったことはしばしばあり、生活空間に仕事モードが持ち込まれたり、あるいはその逆が生じて、といったことで、大小はあれど家庭内紛争が頻発しているように感じます。来談の契機となったのが、可視化されないでなあなあで済ませられていたものが、目につくようになって、それがきっかけで紛争に至り、傷つきが生じる出来事であったということが本当に増えました。
こうした問題で共通する要素というのが、境界侵犯のようなものが、これまで以上にあらゆるところで生じている、ということではないでしょうか。
境界というのは、あなたと私を分ける目に見えないものではありますが、この別があることで初めて、私は私、他人は他人といった認識を持つことができるようになります。
他者は自分の手足ではありません。別の意思や意図、あるいは感覚や価値観を持った存在です。しかし一方で、人間は他者を自分の手足であるかのような存在として他者にいてほしいという感覚を持ってもいます。客体としての他者(対象といいます)はいるけれど、自分の中にいるイメージとしての他者(自己対象といいます)というのが同時に存在するのです。例えば、子どもを例に取るならば、子どもは子どもで自我はあるけれど、自分の中でも子どもはいい子であってほしいし、例えば叱っても素直に反応してほしい/反応してくれるというわけです(自己愛的に他者を捉えると言ったらいいでしょうか)。これが必ずしも他者を尊重していないとかそういうことではなくて、こういう感覚であることはごくごく自然なものであるとKofutはいっています。相互交流の中で、対象には対象の意図や欲望があって、自分と思い描いていた他者とは違うのだと、理解していく中で、次第に自分の中にいた他者と実際の他者がよりはっきりと別れて、内面がより尊重されるようになるものです。
しかし、こういう先の見えない情況の中で、大人も子どもも一様に、心理的な安定感を欠くようになり、その原因を他者に投影したり、他者からの慰めを深刻に求めるようにならざるを得なくなってしまいました。さりとてこれまでのように外部から慰めを得ることができなくなってきて、家族の力学はますます先鋭化してきています。そこに来て、様々なものの境界線が曖昧になっていき、これまで以上に、不安の取り扱いが難しくなり、不安の押し付けあいが始まってしまった。
しばしば聞くのは、夫が自分の仕事の見通しの不安定さを子どもに投影して、受験に強く干渉するようになる事例であったり、夫の帰宅までに辻褄が合わされていた家事育児が思ったようなやりかたではなかったことで(妻二対する理想化が崩れたことで)生じた紛争だったりと言ったことです。子供の学校生活が可視化されたことでの干渉も増えてきていますし、自分の不安を互いに押し付けあって紛争が起こっている情況をしばしば見かけます。
まずはこの状況を整理し、その不安が誰のどんな不安であるか、そして、誰がどの程度それを抱えるべきなのか、整理し、役割を決め、個々人の間に境界を明確にしていくことが、こうした情況を整理し、解決していくことに役立つだろうと考えられます。
ホームへ