オンラインカウンセリング雑感

新型コロナウイルスが武漢で報告されて、かれこれ半年。

緊急事態宣言や自粛要請が出て、3ヶ月ほど経つようになりました。当相談室でも、一月ほど休室期間をはさみ、感染予防の準備を整えるかたわら、『Psychoanalysis online』を片手に、オンラインカウンセリングの試みをはじめました。

今回は、個人的な雑感なので、クライエントさんにはあまり関係がないことかもしれませんが、自分のリハビリや備忘録として記事を残したいと思います。

画面越しのコミュニケーションの独特さ

画面越しのカウンセリングは、やはり対面のものと異なるな、とうのは実感です。対面の対話のようなコミュニケーションの要素が全てあるわけではないので、限られた情報をもとに会話をするので、文脈を違えてしまう。特に非言語的なメッセージが届きにくいので、普段の相槌で伝わるものが伝わりにくかったりすることがしばしばあるようで、そのあたりはなかなか難しいなと思います。

機械的な制約があることも特徴で、接続が悪いと、音が不明瞭になったり、時には途切れてしまったりします。これは実際の面接では、聞き間違いや誤解に近い状況で、「共感の失敗」体験になってしまう。突然映像が途切れてしまえば、ある種の見捨てられた外傷を呼び起こす刺激になることもあって、安定した回線はあたかも安定した関係のアナロジーのようです。

こうした音声や映像に代表される、ハードウェア的な問題を技術的にクリアすることは、それなりに知識、技術が必要なので、気軽に受けられると喧伝されるオンラインカウンセリングも、それなりにハードルがあるなと思っています。

また、対面のカウンセリングと異なり、ヘッドセットなどを使用することで、お互いの「声」が近くなることは、作動記憶に困難がある人にとっては、聞き取りやすくすることを可能にしますが、逆に近すぎる距離によって、対面とは異なる関係性になってしまうことが十分に予想できます。ときにはエロティックな様相を呈することもあるかもしれません。

オンラインカウンセリングならではの関係性があるだろう

仏の哲学者のドゥルーズは、機械によってコミュニケーションが規定されると述べていましたが、メディアの違いによる独特の転移関係があることに注意をする必要がありそうです。

そうした対面の面接にはない関係性が出てくることで、苦慮することもあります。非常に重要な話をしていたのに、音声が不明瞭で伝わらなかった経験は、何を言っても聞いてもらえなかった体験を賦活することもあるでしょうし、画面の向こう側にいる存在の希薄さ(どちらかが画面を切ってしまえば消えていなくなってしまう!)それ自体が、カウンセリングの持つ葛藤を抱えるContain機能を残ってしまうこともあるでしょう。あるいは、嫌になったら消してしまえば、セラピストは「簡単に」消え去ってしまうわけです。それは、簡単にセラピストを召喚できる装置でもあって、こうしたいつでもどこでも現れる、魔術的な簡単さは対面のカウンセリングにはない現象です。それは、ある意味、セラピスト-クライエント関係のボーダーレス化にもつながるかもしれません。

構造をはっきりさせることが必要

しばしば、対面でないために、オンラインカウセリングでは「深い話」ができないし、受け止められない、という主張もありますが、果たしてそうなのでしょうか。たしかに希薄さによって、そうしたものが薄らいだように感じ、こちらも手が届かないことで、受け止めきれないと感じることもあるだろうかと思います。

また、ボーダーレスなために、強い転移感情が生まれたり、妄想的な感情が生まれる可能性も秘めています。それを対面カウンセリングのやり方でやろうとすると、流石にうまくいかない、ということはありえそうです。

一方で、ボーダーレスでありながら、画面で隔絶されていて、現実では、かえって距離があるのがオンラインカウンセリングの特徴かもしれません。もちろんすべてを代替することは難しいかもしれませんが、「深い話」であっても、オンラインカウンセリング特有の文法を念頭に置くことで、そうした問題の取り扱い方は変わってくるのではないでしょうか。

構造的にボーダーレスになってしまうところに、機能的な構造を持ち込むことで、このあたりに対処していくこともできるのではないかと思っています。対面以上に、治療構造が求められるのが、オンラインカウンセリングの特徴と言えるのではないでしょうか。

今年は、オンラインカウンセリングを導入するところが非常に増えました。技術が一気に普及したことで、ニーズとサプライも高まっていくでしょう。それに伴って、この分野の研究は今年を皮切りに多く増えていくだろうと思います。今後の研究に期待したいところです。

 

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2020年06月18日