絵画療法に思うこと

ひがしすみだカウンセリングルームです。

今日は中井久夫を読みながら絵画療法について考えます。

言葉は不完全

我々は日常において言葉を介して関わります。しかし路傍の石の佇まいを言葉が十全に説明できないように、言葉は不完全なものでもあります。それは、「個体の要求する以上の厳密さを必要とせずに表現できる(中井,1971)」幅のあるものと言えます。

これは、言葉が厳密な意味を迫らないことを意味しますが、自らに向けられた問いについて答えが出ないように、厳密な検討に向かないところもあるようです。とくに言葉は直線的で、意味を一つしか乗せることができない特性を持っていいるため、多義的なものを表現したり、考えるには向かない媒体だと言えます。言葉は、「〇〇は〇〇です」と表現し大きく意味を決めることはできるけれど、〇〇に含まれる様々な要素をうまく説明できない。そっとたたずむ路傍の石を指させば事足りることが、言葉は多くの言葉を重ねなければならない。言葉は剰余を削ぎ落としてしまう。しかし、そこに不安の源泉や可能性のようなものがあるのだと私は考えます。

絵によって切り離す

言葉をつくして、自己の内面に迫ろうとすることで、時に行き詰まり、息が詰まるような思いをすることがあります。そこで、言葉で迫りすぎることを緩和するように働くのが絵画なのだといえます。自己に迫りすぎることはとても大変なことです。

過去、多くの芸術家が、自分の内面の苦痛をキャンバスにぶつけ、崩壊することを遠ざけてきました。ゴッホ、ムンク、ピカソ然りです。彼らは言葉にならない感覚を、「話す」代わりに絵画という媒体によってあらわし、外に置く(外在化させる)ことによって、自らと「離した」のかもしれません。このように自分のしんどいところと距離を取り、息詰まる感覚を緩和するものとして絵画という言葉があるのだといえます。カウンセリングや心理療法は主に、言葉を使ってやり取りするものですが、時に、行き詰まり、息詰まった状況から距離をとることに役立つといえます。言葉の発達な不十分な子供だけでなく、大人もまた、言葉以外の表現に救われることがあるのです。

描かれたものを見るということ-守られた空間

絵の大きな特徴として、「絵はそこに存在」し、見つめることができる。それそのものを検討することができる事物性を持っています。事物性があるということは、それをものとして検討できるということです。例えば妄想を絵にしても、それはあくまで「妄想の絵」であって、現実に害をもたらすものでもなく、あなた自身に害をもたらすものでもないが、見つめることができるものになります。

この現象を中井は、「絵は妄想を『解説』しうる。しかし妄想それ自体では『ない』」(中井久夫『統合失調症者の言語と絵画』)といい、言葉で表現できないものを絵画は表現することを可能にし、それを検討することもまたできると述べています。

そして、そこに事物としてあるということは、手を加えることができるということを意味します。言葉は残りませんが、絵はそこにあって、加筆修正する余地を常に残しています。たとえそれがも妄想の産物であったとしても、修正可能な思考として絵画は常に開かれているわけです。

中井は、最終的には言語の世界は安全であるといい、「人間が最終的に安住できるのは言語の世界であろう。言葉はまさにロゴスであり、宥められ、手なづけられた人間化した現実を手元に引き寄せる」と述べています。しかし「これに対して言うに言えないものは、「物自体の感情」」であると述べ、サルトルの記述した、言葉にならない「嘔吐」体験等につらなるものと言えるとしています。こうした言葉にならない感情を、絵という媒体に落とし、事物化し、言葉で検討することを可能にします。

描画によるカタルシス

 また、中井は、絵画活動は、「精神療法とレクリエーション療法と作業療法を頂点とする三角形のどこかに収まる」活動であると述べ、作業療法が「働くこと」すなわち日常的な「ケ」の営み、レクリエーション療法を「ハレ」であり、「開放」と「発散」を軸とする「祝祭的」な側面を持つものと述べています。

人間は「ハレ」と「ケ」を行ったり来たりしながら生活しているわけですが、絵画療法は心理臨床の場でその営み(働くことと休むこと)を行うことで、日常体験で体験が困難になっていることを別の形で体験し、満足を得たり練習をする機会を得ることにつながることを指摘しており、絵画を介した作業や開放が、日常を別の視点で捉えることを可能にし、それが治療的な効果を生むのだろうと思うのです。

【引用】中井久夫コレクション『「伝える」ことと「伝わる」こと』ちくま文庫,2012

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2018年04月24日