何者にもなれない焦り

 

何者にかなりたい欲求は、70年代以降、とりわけ人々の大きな命題であった。

特に昨今は、行動経済成長期と異なり、自己責任の世の中だ。長く続く不景気の中で、やれ即戦力だ、これが自分だというスキルを身に着け、未来を見据えて生きろ、それができないのであれば努力不足の落語者だというメッセージが、かなり小さい頃から発せられ続け、どの時代になく、自分でいることが強いられている時代ではないだろうか。かつてのんびりと「自分探し」をする時代とは随分違うように見える。

何者かであれという社会の要請

そうした社会の醸し出す「空気」は人々に内面化されていて、自他にむける眼差しは非常に厳しくなっている。それは経済的体力をどんどん失っていくこの社会で、一度レールを外れると、抱えられることが少なく、常に転落の危機にさらされているわけだから、「唯一無二」の「有能」な自分でなければならないと、人々が強迫的になることは当然のことだろうし、人々が念仏のように「自己肯定感」を口にし、求めるのもそれ故のことであろう。

しかし多くの人は平凡だ。みながみな特別な能力をもっているわけでないし、理想的な職場や居場所に巡り会えるわけではない。よしんばそれが得られたとしても、その先も何もなく過ごせるというのはあいにくと奇跡に等しい。ときにはドロップアウトせざるを得ない場面が出てくることだってあるだろう。その挫折感は大きく、何者にもなれなかったという強い負い目と羞恥から身を守るために、引きこもらざるを得なくなる。むしろ、挫折もしつつそれでもなんとかやっていけることのほうが奇跡なのではないかと、私は思う。

自己愛的傷つきと内からこみ上げる衝動

病気や挫折などで、長期に渡る社会的ひきこもり状態になってしまうことで生じた機会損失と時間は戻ってこない。悲しいことだと思う。すでに抑うつ感は遷延化し、社会的恐怖は強く、学校の知識もサビつき、ATMの使い方すらおぼつかなくなる。自己評価は地の底で、であるがゆえに逆転一発を焦ることになるし、それゆえに過度に誇大化した自己愛要求に応えるべく、自分や他人に過剰な自己愛的満足を求めざるを得なくなる。なにもない以上、なにかの可能性を膨らませて自己を支えるほかないからである。その内面では、常にひとかどの人物にならないとこのピンチは逃れられないと言わんばかりの焦りと、自己愛衝迫に苛まれ続ける。

若いうちはまだやり直しがききやすい。しかし、この国は中年には冷ややかだ。そもそも中年は、ややもすれば肩を叩かれるうようになる年齢でもある。そこから出発することは非常に厳しく、本人の意志に反して、分厚い壁に阻まれることも少なくない。

統合 対 絶望

何もなせなかった人生を「何もなせなかった」と抱えて生きるのは絶望だとエリクソン先生も言っている。こんな受け入れない事実を、肥大した自己愛を抱えきれるわけはない。諦めて、受け入れることなど到底できない。そういった人々を前に、さてどうしたものだろうかと、腕を組み、考えてしまう。スタート地点に立つまでに何年もかかってしまうこともある。できることは、骨を拾ってやるくらいだろうか。

社会的に望まれているのは、現実を直面して、肥大した自己愛を手放し、生活を維持できる程度の仕事につくよう説得し、ほそぼそと食っていけるようにするのが「正しい」のだろう。そう思う部分もあるのだが、その「正しさ」を遂行することは、どの程度可能なのだろうか。それを悩むのは、職業的怠慢だろうかとすら思う。

ただ、そうした事ができるならとうにそうしているわけで、そういったやり取りを通り抜けて今に至った人々と(私は)会っているのである(相応のお金を頂戴しているので、来談できる程度に資源がある人々に限った話ではあるが)。そんなかんたんな話では済まない。「正しく」ないのなら、「正しくなく」生きる道を探すしかない。「邪道」を探すことも必要なこともあるだろう。これはセラピスト一人の力では達成できないように思う。

 

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2021年06月01日