自己肯定感は目的ではなく結果である

 

サリヴァンの「精神病理学私記」を読んでいる。

冒頭でから飛ばしていて、「自己肯定感は目的ではなく、結果」であるなんて書いてある。「自尊心が人生の目的となってしまうのは、不安定な状態であって、精神病理学の対象となる状態だ」と説いている。

これは大変にうなずけるもので、この目的と手段が逆転してしまっている方とよく出会う。そうならざるを得なかった歴史があり、そのようにもT燃えることでなんとかこの世の中についていこう、あるいはそうしないと生きていけないという切実な願いがあって、そうなっているのだろうと思う。

「自信のなさ」は個人の問題だろうか

自信というのは個人の特性ではなく、環境との変数である。良い関係でいられる環境の中では、人は(恐る恐るであっても)自身を持って振る舞うことができるし、批判的な環境に枯れれば萎縮してしまう。カースト上位のこどもが転校して、人が変わったように萎縮した様子になってしまうということはよく聞くことで、個人の問題「だけ」に帰着されるものというのは、そう多くはない。

私の限られた臨床的な感覚でもやはり、自尊感情は、行為やふるまいに伴って生じる認識であって、あるとかないとかいう実体でないように思う。だから、それをあるかないか是非をすると、しばしば不毛な議論になってしまう。

ないものを無理やりひねり出そうとすることは無理があるので、私自身は、何かの行為や出来事に伴って生じる感覚に焦点を当てることが多い。やってみて手応えや楽しさを感じたこと、失敗したが、こうしたらいいのではと思えた僅かな体験、不安であったが、思ったほどひどくなくホッとしたこと。自信がなくなっていると、そういった体験に焦点当てるやり方を忘れてしまう。

そのやり方を思い出してもらうか、身体作法として身につけてもらえるよう、援助することのほうが、自分にも馴染むものだなと感じている。

 

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2021年04月12日